■国際ユースホステル連盟の歴史
第1回ユースホステル会議(1932年)
第2回ユースホステル会議(1933年)
第3回ユースホステル会議(1934年)
第4回ユースホステル会議(1935年)
第5回ユースホステル会議(1936年)
第6回ユースホステル会議(1937年)
第7回ユースホステル会議(1938年)
戦争勃発
戦後の再建
第8回ユースホステル会議(1946年)
第9回ユースホステル会議(1947年)
第10回ユースホステル会議(1948年)
第11回ユースホステル会議(1949年)
第12回ユースホステル会議(1950年)
第13回ユースホステル会議(1951年)
第14回ユースホステル会議(1952年)
第15回ユースホステル会議(1954年)
第16回ユースホステル会議(1955年)
第17回ユースホステル会議(1956年)
第18回ユースホステル会議(1957年)
第19回ユースホステル会議(1958年)
第20回ユースホステル会議(1959年)
第21回ユースホステル会議(1960年)
第22回ユースホステル会議(1962年)
第23回ユースホステル会議(1963年)
第24回ユースホステル会議(1964年)
第25回ユースホステル会議(1965年)
第26回ユースホステル会議(1966年)
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第26回国際ユースホステル会議(1966年)
連盟は、年次会議の最後の場所にウィーンを選び、会議はアウエルスベルグ宮殿の優雅な18世紀のホールで開かれ、歓迎演説の間にはシューベルトの弦楽器の音楽が流れた。
会議の主な成果はユース、ホステル家族の大幅な拡大であった。アルゼンチン、セイロン、ケニヤ、レバノンのユースホステル協会が、国際ユースホステル連盟の会員となり、これで会員総数は41になった。執行委員会は上記の4つの協会の規模こそ小さい(4協会でただ28のホステルを持っているにすぎない)が活気にあふれ、すでに運動地盤を確立していると報告したのである。
第24回の会議で設立された機構検討委員会は、非常に充実した報告を提出し、そのなかで過去の進歩に照らし、今度10年にわたり連盟の予想される発展の見通しをつけようと努力した。その結果同委員会は現在の機構を根本的に編成替えする必要はないという結論に達したが、革命よりもむしろ進化により、連盟の仕事を整然と発展させる可能性があると考える勧告を提出した。
中間報告のなかにある委員会の提案の二つは、すでに第25回会議で採択されたもの(2年毎の会議開催と旅費援基金の設立)である、第26回の会議では、委員会によりさらに重要な提案が採択された。すなわち執行委員会を8人から9人と増員したことと、要数の加重決方式が採用されたとこである。
後者の提案によれば1年間で50万泊数以上を記録した会員協会は、1票の追加を受け、100万泊数以上のもは2票の追加を得ることになっていた。この改革(相当論議を起したものであるが)の目的は強力なユースホステルの伝統があり−連盟の財政負担の大部分を負担している「大型協会」を重視することにあった。
執行委員会の成員の強制退任制度を制定する提案(これも組織委員会の提出したもの)は否決された。
9人の成員に拡充された執行委員会に、ヨーロッパはさらにもう一つの議席を獲得し(オーストリア代表の選任で)、一つの議席は、アラブ連合のものとなり他の委員はすべて再選された。
以上の組織上および手続き上の問題から転じて、会議は二つの重要な原則の問題へと移った。ホステル・管理人の教育上および管理上の役割に関する討論の口火を切ったのは、ドイツとイギリスのそれぞれ2人の経験あるペアレントであった。(IYHF会議の議事に管理人が参加したのはこれが始めてのことである)、他の議題は明らかに高度に理論的なものであった。
すなわち、「ユースホステルの現在の性格と機能およびホステル利用者の要望の研究」であった。しかしこの標題に重要な問題がかくされていることが、やがて明らかになった。すなわち、「先進国の一部のホステルは、過去においてそうしたように、現在は若者をひきつけることができなくなっているのか、そしてこのような傾向を逆転させるためにはどのような変化が必要もしくは望ましいことであったかということである」。この問題に関するもっと詳細な討論は、第27回会議に繰り越された。
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