第22回国際ユースホステル会議(1962年)

■国際ユースホステル連盟の歴史
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第22回国際ユースホステル会議(1962年)

 ところが不幸にも、この象徴的な行事は実現しなかった。1962年初めに、チュニジア政府がIYHFの会員協会の一つ、イスラエルユースホステル協会の代表に入国査証を出ししぶっていることを執行委員会は知り、そのため、イスラエルユースホステル協会は会議に参加できないところであった。

 このような事情で、執行委員会は遺憾ながら、チュニジアでの会議を取り止めることとし、スウェーデンユースホステル協会が急な連絡ではあったが必要な準備を整えることに同意したので、会議をスウェーデンのヘルシンボルグに移すこととした。

 これは第2次大戦後、連盟の事業に加えられた世界政治の最初の重大な衝撃であり、多少の不快感を生じたのはやむを得ない。それにも拘らず、会議は、アラブ諸国のユースホステル協会やイスラエル代表も参加を得て、スウェーデンで滞りなく行われた。

 執行委員会はリヒャルト・シルマン(前年の冬なくなった!)記念のためにいくつかの提案を出した。伝記をあみ、ホステルに掲げるのに適当な彼の写真を製作すること、また世界の新興諸国への同氏の思想の普及を特に奨励することによって、この創業者の仕事を継続するためリヒャルト・シルマン基金を設定すること等であった。以上の3つの提案は満場一致でうけ入れられた。9ヶ国の代表は直ちにリヒャルト・シルマン基金に3,000ポンド近くの金額を送ることを約束した。(12ヵ月以内に基金は8,600ポンドに達し、1966年末には資本金勘定は21,000ポンドとなった。)

 会議は、イタリアのアルド・ペシナがジュネーブでの国際道路標識局と始めた交渉が、ユースホステルの道路標識の承認となり、またこの標識がすでにイタリア当局とアントワープ市(ベルギー)によって採用されていることを知った。

 第22回会議ではアメリカ合衆国とカナダ市民に発行する国際イヤー・スタンプの売り上げの収入の配分について、あまり啓蒙的ではないが、長い討議が続けられた。

 この討論は第23回、24回、25回会議でも続けられた。連盟の刊行物についての討論において、ヨーロッパ以外の協会代表数人はアメリカ、アジア、オーストラレーシアを含むIYHFハンドブックの第2巻を出す時機がきたことを強調した。執行委員会はこの提案の研究を約した。

 執行委員会は会議に「ウェイト」つけた票決制度をとりいれようとしたが、5万以上宿泊数を記録した協会には2人の代表者を送れる権利を与え、宿泊数が5万以下の協会には一人の代表を送る権利を与えるという宿泊数によって代表者の人数を決めるというこの企ては失敗に終わった。チュニジア代表の言い分は「小国ではユースホステル協会によって記録された宿泊数は、大国の宿泊数より少ないのは当たり前であるし、また会議で小国の代表も大国の代表と同じように劣らぬ能力があり、会議で賢明に票決を行うことができる。」というのであった。

 タイユースホステル協会はIYHFの会員として加入を承認された。ベルギーのピート・キムゼケ氏は執行委員会の一員として南アフリカと中央アフリカを訪問した時の報告をした。彼は、「南アフリカの困難な情勢にもかかわらず、そこには多くの頼もしい徴候があったし、また他国を旅行しようとする南アフリカの黒人に対し、国際会員証を発行することに何の障害もないということを確信した。」と言っている。

 役員を選出する時期がやってきた時、会議は会長として再選に立たなかった、C.H.ブラットレー氏に別れを告げた。ブラッドレー氏の過去6年間にわたる堅実だが、明朗な事務の運営ぶりに多くの賛辞がささげられた。

 彼に代わったのはアントン・グラッスル博士で彼はリヒャルト・シルマン氏が1937年に引退して以来、ドイツ人としてはじめて会長の椅子についたわけである。博士の会長選任は、ドイツユースホステル協会が当時受けていた尊敬、また14年間オブザーバーとして、或いは代表として忠実にドイツを代表してきた、この謙譲かつユーモアにとんでいて、融和的なババリア人として各国代表がいだいている愛情を反映するものであった。

 副会長にはスウェーデンのフローディン氏が就任した。

 連盟は会議を毎年開催する基準に立ち戻るべきであることに意見が一致し、またアイルランドを満場一致で第23回会議の開催地とすることに同意した。同時に色々討議が行われた結果、第24回会議はスペインで開かれることが決定され、スペイン代表はすべての参加者に差別なくヴィザを発行することを確約した。
もっと詳しいことを知りたい方は、日本ユースホステル協会(http://www.jyh.or.jp/index2fr.html)へ御連絡ください。

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