■国際ユースホステル連盟の歴史
第1回ユースホステル会議(1932年)
第2回ユースホステル会議(1933年)
第3回ユースホステル会議(1934年)
第4回ユースホステル会議(1935年)
第5回ユースホステル会議(1936年)
第6回ユースホステル会議(1937年)
第7回ユースホステル会議(1938年)
戦争勃発
戦後の再建
第8回ユースホステル会議(1946年)
第9回ユースホステル会議(1947年)
第10回ユースホステル会議(1948年)
第11回ユースホステル会議(1949年)
第12回ユースホステル会議(1950年)
第13回ユースホステル会議(1951年)
第14回ユースホステル会議(1952年)
第15回ユースホステル会議(1954年)
第16回ユースホステル会議(1955年)
第17回ユースホステル会議(1956年)
第18回ユースホステル会議(1957年)
第19回ユースホステル会議(1958年)
第20回ユースホステル会議(1959年)
第21回ユースホステル会議(1960年)
第22回ユースホステル会議(1962年)
第23回ユースホステル会議(1963年)
第24回ユースホステル会議(1964年)
第25回ユースホステル会議(1965年)
第26回ユースホステル会議(1966年)
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第18回国際ユースホステル会議(1957年)
会議は、新会長イギリスのC.H.ブラットレー氏のもとで、オランダのユトレヒト近郊にあるザイストで開かれた。ブラッドレー氏の長身が次期6年間連盟を圧することとなった。
会議の手始めの仕事は少々憂うつなものであった。一つはアルジェリア協会の指導に統一が欠けており、そのユースホステル活動の事実上停止されるというので、アルジェリア協会を会員から一時除くということ、もう一つは(新しく独立したチュニジア政府による)チュニジアユースホステル協会の解散を承認することである。前会長、レオ・メイリンク氏がどれだけ善いことをみせても、旧植民地国の会員は、新しい独立国家では、組織者または指導者としては歓迎されない」と指摘している。
より積極的な措置は、連盟の会員増加を考慮に入れるため、執行委員を7人から8人に増員する決定であった。
もう一つの積極的な措置は、さらにスペインユースホステル協会を会員として認めることであった。この申請は前回の会議で提出されていたが、スペイン政府が政治上、宗教上の反対者に対して差別をするのではないかという懸念から、多くの代表が据え置いていたものであった。一方IYHFの執行委員会はマドリッドで会合し、スペインユースホステル協会はIYHFの希望を考慮する新規約を作成することに同意した。さらに長い論議が行われて、多くの鋭い質疑が行われた後、会議はIYHF執行委員会が新しい規約を受理して、重要な点について納得すれば直ちにスペインユースホステル協会を会員として加入させることに同意した。(このことは1958年1月に行われた。)
委員会が会議とラリーの形式を審議し、第19国際ユースホステル会議に報告するため設立された。この委員会はドイツ、ベルギー(フランダース)、モロッコ、オランダ、北アイルランドの各代表から構成されていた。会議は1958年の春日本でアジアユースホステル諸団体の会議を開催するという提案を歓迎した。地域の会議として最初のものではなかったが(定期的会議は北欧の各協会と英国諸島の各協会との間で各々に数年間開かれていた)、この提案は特にアジア的な考え方を連盟内でうちたてたという意味で、連盟の歴史において画期的な事件であった。もう一つの重要な決定は、連盟事務総長ロバート・オルセンがその途中アジアの一部諸国を訪問し、アジア会議に参加するということであった。これは、次の数年間執行委員が行うことになり、また連盟の世界的活動範囲の拡大とその豊富な財源の増加を反映する、一連の大陸間の旅行一番手であった。執行委員の選挙の際A・グラッスル博士(ドイツ)は、連盟副会長に選ばれた。
会議中(8月19日、月曜日)、アムステルダムYMCAセントラル・ホテルで、25年前この同じ建物で連盟が結成されたことを記念するため、晩さん会が催された。来賓中には、IYHFの初代会長リヒャルト・シルマン氏、初代書記長H.L.E.J.ディーリン氏、1957〜58年に至る1年間会長であったP、J.ミューラー氏、メイリンク氏とジャック・キャップール氏があった。
最初のアジア地域会議は滞りなく、1958年4月から5月にかけて開かれ、それにはインド、イスラエル、日本、マラヤ、カンボジア、ホンコン、タイ、ニュー・ジーランドの各代表ないしオブザーバー、またIYHFから事務総長のR・オルセン氏を迎えた。会議の場所は次々と日本の諸都市に移り、日本政府の知事、代表の歓迎を受けた。
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