■国際ユースホステル連盟の歴史
第1回ユースホステル会議(1932年)
第2回ユースホステル会議(1933年)
第3回ユースホステル会議(1934年)
第4回ユースホステル会議(1935年)
第5回ユースホステル会議(1936年)
第6回ユースホステル会議(1937年)
第7回ユースホステル会議(1938年)
戦争勃発
戦後の再建
第8回ユースホステル会議(1946年)
第9回ユースホステル会議(1947年)
第10回ユースホステル会議(1948年)
第11回ユースホステル会議(1949年)
第12回ユースホステル会議(1950年)
第13回ユースホステル会議(1951年)
第14回ユースホステル会議(1952年)
第15回ユースホステル会議(1954年)
第16回ユースホステル会議(1955年)
第17回ユースホステル会議(1956年)
第18回ユースホステル会議(1957年)
第19回ユースホステル会議(1958年)
第20回ユースホステル会議(1959年)
第21回ユースホステル会議(1960年)
第22回ユースホステル会議(1962年)
第23回ユースホステル会議(1963年)
第24回ユースホステル会議(1964年)
第25回ユースホステル会議(1965年)
第26回ユースホステル会議(1966年)
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第23回国際ユースホステル会議(1963年)
IYHFの世界的な活動の舞台は、この会議で一層固められた。会長は中近東諸国、すなわちトルコ、レバノン、ヨルダン、シリア、キプロス、イスラエルへの一ヵ月の訪問について報告した。オブザーバーはこれらのうち3ヶ国からとブラジル、イランからも参加した。アルジェリア(現在は独立国)のユースホステル協会は、連盟の会員として再び加入を承認された。25回国際ユースホステル会議は、ポーランドで−共産圏内の開催国としては最初のもの−開催されることになった。
第21回国際ユースホステル会議の決定にもとづいて(8,000ポンドを上回る費用をかけて)製作された国際ホステリングの色彩映画を、各国代表に見せたが期待外れの作品であった。しかし日本ユースホステル協会が製作した映画にたいしては、ずっと強い関心が寄せられ、この映画は後にリヒャルト・シルマン基金を通して、ひろく各国のユースホステル協会に配給された。
会議の相当部分は前年度始められたイヤー・スタンプの収入配分についての論議の継続で占められていた。
執行委員会の提案は、将来の会員加入申請の最小限度の要件を決めようというもので、会議で多少詳しく討議された。一般に、この提案に反対したのは小規模の協会や新設協会で、これを支持したのは大型の協会で、後者は将来の申請を認定するなんらかの客観的な基準をもつことが必要だと考えたのである。結局妥協案が34対6、棄権10で採択されたが、この提案によれば、将来のIYHF会員加入申請は、一定の最小限の要件(これは特別の場合は会議の自由裁量で修正できる)を充足することになっている。
IYHFの新しい刊行物が会議に提出された。これは「世界をめぐる」という絵入りの小冊子で、発展途上にある国々に適した簡素なユースホステルの設計と構造を、絵入りで説明してある。なおこの本はユネスコとの共同製作である。
最後に会議は、1964年の春、執行委員会が日本で会議を開くよう招請され、この招待が諾されたことを承知したのである。
この執行委員会は滞りなく行われたが、いろいろの点で特色のあるものであった。この執行委員会はヨーロッパ以外で始めて開かれるものであった。ことに執行委員会の会員とシルマン基金の代表は、日本でのユースホステル運動のダイナミックな進歩を自分の眼で見、訪日の途中マラヤのクアラルンプールの第4回アジア地域会議に参加できたことである。
日本への訪問は、日本ユースホステル協会が気まえよくヨーロッパから日本への旅費を負担し、日本での2週間の滞在中歓待してくれたのでできたことである。その間、来日した執行委員たちは東京都知事、文部大臣、前総理はじめ都道府県の指導者と会見し、北は北海道から南は九州までユースホステルを視察した。
マラヤでのアジア地域会議は、この地域でのYY運動の諸問題を掘り下げて理解する機会を、IYHFの指導者に与えた。本会議はインド洋の椰子にふちどられた海岸のホステルで開かれ、代表達はネグリ・センビラン回教君主ヤング・ディニペルトウアン・アゴング・マラヤ国王によって迎えられた。会議期間中にIYHFの執行機関へのアジア諸国の代表に関し、アジア代表たちと執行委員の一部との間に多少鋭い意見の対立があったが、この率直な意見の交換によって、次回の国際ユースホステル会議におけるよりよい理解への道がひらかれたのである。
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