■国際ユースホステル連盟の歴史
第1回ユースホステル会議(1932年)
第2回ユースホステル会議(1933年)
第3回ユースホステル会議(1934年)
第4回ユースホステル会議(1935年)
第5回ユースホステル会議(1936年)
第6回ユースホステル会議(1937年)
第7回ユースホステル会議(1938年)
戦争勃発
戦後の再建
第8回ユースホステル会議(1946年)
第9回ユースホステル会議(1947年)
第10回ユースホステル会議(1948年)
第11回ユースホステル会議(1949年)
第12回ユースホステル会議(1950年)
第13回ユースホステル会議(1951年)
第14回ユースホステル会議(1952年)
第15回ユースホステル会議(1954年)
第16回ユースホステル会議(1955年)
第17回ユースホステル会議(1956年)
第18回ユースホステル会議(1957年)
第19回ユースホステル会議(1958年)
第20回ユースホステル会議(1959年)
第21回ユースホステル会議(1960年)
第22回ユースホステル会議(1962年)
第23回ユースホステル会議(1963年)
第24回ユースホステル会議(1964年)
第25回ユースホステル会議(1965年)
第26回ユースホステル会議(1966年)
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第14回国際ユースホステル会議(1952年) 会議はローマで開かれ、各代表はイタリア観光事業高等委員に迎えられた。ここでは多くの重要事項の決定をみた。会員国でない国からの参加者に国際YH会員証を発行する方式が、再び実施することに意見の一致を見た。この方式は1939年以来行われないでいたものである。これらの会員証の収入は、発行者たる協会とIYHFの間で配分することにした。しかし戦前この収入は、まったく取るに足らないものであったが、この新しい方式は、会計担当トム・ヤング氏の能率的な運営によって、たちまち連盟の主要な収入源となり、その財政をはじめて真に健全化したのである。
1951年から続行された「YHの最低基準」の委員会は、すでに会議によって採択された報告を提出したが、この報告はホステルにおいて提供されるべき設備に関する連盟の正式の決定となっている。
もう一つの重要決定事項は国際YHハンドブックにヨーロッパ全YHの所在地を書き込むことを認めた。
以前のハンドブックにはホステルの所在地は、入っていなかった。それは会員協会一部に自国のハンドブックが、国際ハンドブックにおされてしまうのではないかという不安があったからである。新しいハンドブックはすぐに良い成果をあげ、その売れ行きは毎年あがる一方であった。
アイスランドとパキスタンの二つの協会が新しく連盟の仮会員として認められた。これで会員は仮会員を含めて28になった。
ところで実験的に、1954年まで次回の国際ユースホステル会議を延期することにし、それまでの2年間は、連盟の仕事を執行委員会の手に任せることにした。
執行委員の選任によって、二つの重要な人事異動が起こった。すなわち、イギリスのC.H.ブラッドレー氏がスイスのトニー・ポルトマン氏にかわって副会長となり、またドイツのA・グラッスル氏が執行委員会の一員に選ばれたのである。なお両氏とも後に連盟の会長におさまることになる。
会議の後、各国代表はバスでローマから北に旅行しオルタ湖畔で開かれた国際ラリーに参加した。 |