■国際ユースホステル連盟の歴史
第1回ユースホステル会議(1932年)
第2回ユースホステル会議(1933年)
第3回ユースホステル会議(1934年)
第4回ユースホステル会議(1935年)
第5回ユースホステル会議(1936年)
第6回ユースホステル会議(1937年)
第7回ユースホステル会議(1938年)
戦争勃発
戦後の再建
第8回ユースホステル会議(1946年)
第9回ユースホステル会議(1947年)
第10回ユースホステル会議(1948年)
第11回ユースホステル会議(1949年)
第12回ユースホステル会議(1950年)
第13回ユースホステル会議(1951年)
第14回ユースホステル会議(1952年)
第15回ユースホステル会議(1954年)
第16回ユースホステル会議(1955年)
第17回ユースホステル会議(1956年)
第18回ユースホステル会議(1957年)
第19回ユースホステル会議(1958年)
第20回ユースホステル会議(1959年)
第21回ユースホステル会議(1960年)
第22回ユースホステル会議(1962年)
第23回ユースホステル会議(1963年)
第24回ユースホステル会議(1964年)
第25回ユースホステル会議(1965年)
第26回ユースホステル会議(1966年)
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戦争勃発
しかし、これは詳細にわたって記録するわけには行かない。なぜなら第8回国際ユースホステル会議は1939年夏から7年後の1946年夏まで延期される羽目になったからである。指名された代表の1部はスコットランドに到着したが、他は旅行に出られなかった−西欧には動員令が下り、男子の召集が始まったからである。ドイツはポーランドに侵入し、そのため会議は流会に追いやられた。既にスコットランドに到着した者も憂慮を抱きつつ別れを告げ母国に急いだ。
1939年9月以後も通信連絡はある程度行われたが、そのような状況ではユースホステルの領域でも平和的な国際協力は促進し得なかった。参加会員協会は全て、当時尚中立であったオランダの書記長と連絡をとり、国際ユースホステル連盟の全活動を中止し、再び平和の日の甦るまで書記長メイリンクが管財人として行動するよう委任することに一致した。
1940年5月、オランダは自由世界より切り離された。管財人として為し得ることは国際ユースホステルの金を保管するためできるだけ屏息していることだけであった。この状態は1941年3月まで続いたが、このときナチスはオランダ・ユースホステル協会の幹部をその任より追放し、オランダ・ユースホステル事業を乗っ取った。(しかし誠に喜ばしいことに、この試みは失敗に終わった。)
ドイツ協会は全ての書類を押収し、記録文書をベルリンに海上輸送したが、そこで結局連合軍の爆撃により消滅してしまった。しかし約3,OOOオランダ・フローリンの金はオランダに秘匿され、戦後我々の新しい再出発の裏付となった。
遂に苦難と破壊の時期は終わった。1945年の夏の数ヶ月、それは異常な衝撃的な時であった。全欧州は軍事指導者が掌握しており、文民政府の出現と正常な生活状態の復帰は極めて徐々であった。このような環境では、馬鹿にやりやすいことがあるかと思うと、反面信ぜられぬほど難しいこともあった。通信や個人的連絡はなお困難であったが、それにも拘らず、外国から来る通信は全て好意に満ち、新たな密接な協力を樹立しようという希望に燃えていた。
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