■国際ユースホステル連盟の歴史
第1回ユースホステル会議(1932年)
第2回ユースホステル会議(1933年)
第3回ユースホステル会議(1934年)
第4回ユースホステル会議(1935年)
第5回ユースホステル会議(1936年)
第6回ユースホステル会議(1937年)
第7回ユースホステル会議(1938年)
戦争勃発
戦後の再建
第8回ユースホステル会議(1946年)
第9回ユースホステル会議(1947年)
第10回ユースホステル会議(1948年)
第11回ユースホステル会議(1949年)
第12回ユースホステル会議(1950年)
第13回ユースホステル会議(1951年)
第14回ユースホステル会議(1952年)
第15回ユースホステル会議(1954年)
第16回ユースホステル会議(1955年)
第17回ユースホステル会議(1956年)
第18回ユースホステル会議(1957年)
第19回ユースホステル会議(1958年)
第20回ユースホステル会議(1959年)
第21回ユースホステル会議(1960年)
第22回ユースホステル会議(1962年)
第23回ユースホステル会議(1963年)
第24回ユースホステル会議(1964年)
第25回ユースホステル会議(1965年)
第26回ユースホステル会議(1966年)
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第7回国際ユースホステル会議(1938年) 1938年8月28目から9月2日にわたり、第7回会議がスイスのバーデンにおいて開かれた。「青年集会」は新機軸の素晴らしい試みであった。国際ユースホステルの各代表はほとんど皆れっきとした徒歩旅行者であり、自転車旅行者であり、それ迄国際ユースホステル連盟と一般のホステル会員との接触に欠けるところがあるのを感じていた。この欠陥を解消するため、スイス協会は、会議開会前の週末に、バーゼルの近くにあるブルグ・ロートベルクで「青年集会」を催すことを決め、非常な成功を収めた。ほとんど全ての参加協会が一団のホステラーを送り、ロートベルク城の前庭は終日世界各地の歌や華やかな踊りや、芝居で埋まった。
ユースホステル会員の国際料理コンクールまで飛び出したものである。
フランスの準備委員会は1937年の会議の時エピ・ドールにフランス・ホステラーの集会を催したが、更にスイスは国際ラリーの範を示した。この年以後はどの会議においても開会に先がけて国際ユースホステル・ラリーを催し、今では輝かしい、伝統ある行事となっている。1937年から38年の両会議の間の期間は成果の挙がった年であった。事業計画は実現を見、意気軒昂たるものがあった。フィンランド(既に会員資格申請をしており、この会議で承認された)とノールウェーだけが代表を送ることができなかったが、その他全会員が参加した。全般的に云って、この会議は先の会議の決定を固めたもので、表立った審議事項はほとんど無く、ただ新しく23項にある事業計画が設定された。
ともあれ、会議は成功裡に終わった。これはスイスの風景の美しさと、スイス国民の温いもてなしが大いに写っている。しかし新委員の選出に当たり、各個人の国家的自尊心が露骨に表面化した。ナチ協会は全て団結して主導権を取り戻そうと図った。この会合に出席した者は全てバインヴィル・アム・ゼーのスイス・ユースホステルの午後のことを憶えていよう。そこで自由主義的協会と全体主義的協会の対決が行われたのである。
その結果は自由主義陣営に有利に終わった。ルクセンブルグのP.J.ミューラーが会長に再選されたが、彼は指名を受諾せず、イギリスのE.S.T.ジョン(ジャック)キャッチプールは会長に選ばれ12年間この職をとることになる。
彼は(ドイツのロダッツとフランスのサンニエ)の2副会長を含む6会員からなる拡大委員会によって支持された。
この委員会は事業を推進し、事業計画の数項目を実現した。即ち、国際図解文宇の使用の一般化、ドイツとの清算制度(ホステル・ヴァウチャー)、ユースホステル運動に関心をもつ国との連繋の緊密化(イタリー、ポルトガル、エジプト、パレスチナ)、機関誌の刊行、国際会員証の統一発行、正確な統計図表の作成、ユースホステル事業の法的立場の研究、この外この運動に関連ある事項である。国際ユースホステル連盟は国際旅行同盟に加入し、多くの国際的機関と連携を保った。
徐々にではあるがユースホステル運動は国際的組織として認められる段階に進んでいた。
委員会は、1939年8月27日より9月2日に至ってスコットランドのエディンバラおよびシャンドンで開催予定の次期国際ユースホステル会議に、リトアニア、エストニア、およびスウェーデン旅行連盟の加入を推挙し、またチェコ旅行クラブが、ドイツ占領の結果、二つの団体に分かれたのを−一つはボヘミア、モラビア保護領、他はスロヴァキアを対象とする−承認するよう勧告した。
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