■国際ユースホステル連盟の歴史
第1回ユースホステル会議(1932年)
第2回ユースホステル会議(1933年)
第3回ユースホステル会議(1934年)
第4回ユースホステル会議(1935年)
第5回ユースホステル会議(1936年)
第6回ユースホステル会議(1937年)
第7回ユースホステル会議(1938年)
戦争勃発
戦後の再建
第8回ユースホステル会議(1946年)
第9回ユースホステル会議(1947年)
第10回ユースホステル会議(1948年)
第11回ユースホステル会議(1949年)
第12回ユースホステル会議(1950年)
第13回ユースホステル会議(1951年)
第14回ユースホステル会議(1952年)
第15回ユースホステル会議(1954年)
第16回ユースホステル会議(1955年)
第17回ユースホステル会議(1956年)
第18回ユースホステル会議(1957年)
第19回ユースホステル会議(1958年)
第20回ユースホステル会議(1959年)
第21回ユースホステル会議(1960年)
第22回ユースホステル会議(1962年)
第23回ユースホステル会議(1963年)
第24回ユースホステル会議(1964年)
第25回ユースホステル会議(1965年)
第26回ユースホステル会議(1966年)
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第6回国際ユースホステル会議(1937年)
第6回会議は万国博覧会の最中、バリで開催された。会は幸運にも万国博覧会の青年館で公式の開会式を行う機会を得、後にビエルヴイルに会場を移した。国際ユースホステル連合はユースホステル運動の性格と理念と、その世界的な普及状況を華々しく展示した。この会議の会場はビエルヴイルのレピ・ドールに定められた。これはフランス連合の創始者であるマルク・サンニエの所有地内にあるフランス最初のユースホステルである。
フランスの対立する二つの協会、フランス連合(連盟会員)、一般人同盟(会員資格申請者)は争ってフランス一流のもてなしをした。この会議に参加した代表は数限りない招宴や饗応、それに絶えまない「あいさつ」の続いたのを覚えているであろう。
しかし1度実務に戻ると、会はあまり恵まれたとは云えなかった。
ドイツ・ユースホステル協会代表は、現状調査委員会において連合における地位の増大を図った。しかし彼らとその支持者は票数で他議員を上廻らなかったため、譲歩せねばならなかった。
その結果1937年7月28日ドイツ協会は国際ユースホステル書記長に書簡を送り建設的協力の可能性を期待し得ない旨、ドイツは国際ユースホステル連合から脱退する旨を述べた。ドイツは、他協会が全面的一致を望むあまり建設的活動と普及活動に欠ける処ありとしたのである。なおドイツ協会は他協会と関係を絶とうというのではなく、むしろその方向にむかって旧連合以上に建設的措置を取ろうとするのである旨を書き加えている。
リヒャルト・シルマンは最早連盟会長としての地位を維持し得ぬことを知り、1937年7月29日に書簡を送り、会長の職を辞任すると共にパリ会議には出席できない旨を伝えた。それまでできる限りはナチ協会に対し彼を支持して来た国際ユースホステル連盟も、ことここに至っては、その辞表を受諾する以外に道なしと覚った。
マルク・サンニエは副会長として会議を開き、現状調査委員会議長P・J・ミューラー教授に席を譲った。回復主義協会の大部会も不参加の意志は表明していたが、尚それ迄は脱退していなかった。ズデーテン・ドイツおよびオーストリアのW・シモン博士、プライス教授は出席していたが、それは欠席者の擁護のためであった。
現状調査委員会は詳細にわたる規約草案を作成したが、新事態に処し、ドイツ復帰の門戸を開けて置くため、会議はこのドイツ脱退の原因となった規約を受理しないことに決定した。そして別途に、現状調査委員会がスイスのビンダー氏の協力を得て、最初の構想を圧縮して作成したごく短い簡単な条文を採択することに一致した。当時の事態がいかに困難であったかは、1932年の国際ユースホステル連盟の創始者達が不可欠と考えていた相互自由利用権を、双務協定で処理するために規約から除いたことからも窺われよう。しかしながら規約は前のものよりずっと明確になった。会員資格について区々の形態は消滅し、ユースホステル協会全体としてのみ入会を許されることとなった。かくて国際連盟の健全な骨組みができたのである。
フランス青年宿泊所一般人同盟が新会員に迎えられた。既存の参加会員協会と同一領域を持ち、ただ思想的に異なった背景の協会が認可されたのはこれが初めてであり、重要な決定であった。同時にカナダ、エストニアも入会を許された。
新執行委員の選挙に当たって各ユースホステル協会、および執行委員とも、個人的、民族的な偏向から抜け出ていないことが明らかとなった。会議はほとんど激しい議論に終始したが、結局全く新しい顔触れを指名することに決定し、会長にはD・J・ミューラー(ルクセンブルグ)、副会長にO・ピンダー(スイス)、書記長兼会計主任にL・メイリンク(オランダ)、他に委員としてマルク・サンニエ(フランス)、グラハム・ヒース(イングランド・ウェールズ)を選任した。この委員会にはドイツを国際連盟に復帰させるため、妥当な範囲で、できるだけの努力をするよう指令された。
最後にこの会議では(私はこれを会議が再び正道に戻った証拠であると考えるが)国際連盟を国際協力の真に建設的原動力たるよう20ヶ条の具体的な項目を盛った「事業計画」を採択した。国際ユースホステル情報を年2回から4回刊行することもこの事業計画の1項目である。この編集者にはO・ビンダーが選ばれ、成果を挙げたことを記しておく必要がある。
ビエルヴイル会議は困難な会合であり、大きな意見の相違もあったが、実質的には相当な協力を達成し、来るべき年を期待させた。
歴史のために、この会議が本当の意味のユースホステル会議であったことを書きつけておこう。というのはこのため雇ったコックや家内使用人が図らずもストライキの挙に出たため、代表が自炊しなければならなかったからである。誠にフランスにおける光輝ある時であった。
執行委員会は会議の意を体してドイツを会議に復帰させた。事業計画の1部項目は既に実行され、情報も定期的に刊行されて、各国協会のきづなとなった。連合の財政状態も改善され、また会員の協力のお蔭で統計表に信憑できる数字を得ることができた。
ドイツ・ユースホステルは会員資格を抛棄した1937年の数ヶ月の間に国際ユースホステル運動の1機関を創設した。これは対抗的な国際事務局のようなもので全衛星協会の中心となった。この事務局には特殊な任務を負わすことができたわけである。国際連盟に代わってユースホステル国際普及週間を組織しようと試みたが、多大の努力を払ったにも拘らず、大した成功は収めなかった。 |