渡部昇一・ドイツ留学記

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渡部昇一・ドイツ留学記

 上智大学名誉教授・渡部昇一氏もドイツ留学時代に本場ドイツのユースホステルを利用して旅をしています。その模様は、ドイツ留学記(講談社)に詳しくかかれてあります。その内容を抜粋して紹介します。



B−遍 歴

 ヴァンダー・フォーゲルという言葉は日本でも普通に使われる言葉になった。特に学生などはこれを略してワンゲルなどと言っているようである。これは「渡り鳥」の如く、方々に徒歩旅行する運動で、最初に創立せられてから六十年にもなり、英国のボーイ・スカウト運動に先立つ事数年である。今世紀初頭のヨーロッパでは、方々でこういうような青少年を自然に連れ戻す運動があったようだ。ボーイ・スカウトの方はドイツでは「小径発見者」になった。この他、カトリックの方には「湧泉(クイックボルン)」「新ドイツ」運動などが出てきた。いずれもヒットラー・ユーゲントの成立とともに解消させられたが、戦後は再び盛んのようである。遍歴する事は、前に職人の養成の所で述べたように、ドイツの伝統にとって新しい事ではない。むしろ青少年が、近代の教育制度のため、伝統から離れる傾向にあるので、これをもとに戻そうという意味の方が強いのであろう。そして、ドイツはヴァンデルンにふさわしい国土をもっているのだ。

 ヴァンダー・フォーゲルができた頃はおそらく徒歩であったろうが、今日では自転車である。男女別々に繰り出す事もあるし、一緒の事もある。ユーゲント・ヘアベルゲ(青少年宿泊所)が到る所にあるから、宿泊の心配はいらない。ヴァンデルンク用の小地図があるから、これを睨みながら計画を立てるわけである。ユースホステルはヨーロッパのどこにでもあり、そのヴァンデルン用のパス券は欧州共通である。ただ、スイスなどのように観光で収入を立てているような国は通用しなかったり、あるいは通用しない期間があったりするが、それはそのパス券に明記してある。

 私も、二十日ばかり、イギリスのユースホステルをドイツ発行のパス券を持って巡歴した事がある。プリマス港に近い所では、まだガス燈を用いている所があったので驚いた。ドイツではガス燈の所に泊まった事はない。また、ロンドンのユースホステルの風呂の設備がよいのが印象的で、これはドイツのホテル以上である。ドイツではシャワーだけである。

 ともかく、夏休みともなれば、彼らは仲間を組んで外国に自転車旅行する。イタリア、フランス、スペインなどである。四週間、自転車で北欧を廻ってきた所だという女学生の一群 に出会った事もある。道は坦々として空気には塵攻がない。晴れてはいるが暑くない夏の日ざしを受けて、清新な唄を歌いながら、森と野と牧場と異国の町を巡りながら数週間の自転車遊行する事は、青少年にまことにふさわしい快楽である。

いざ越え行かん広き野を
いざ登らん晴れたる嶺の人気なきを
いざ耳を澄まさん強風の何処より吹くかと
いざ見ん山かげにひそむは何者ぞと
いざ行かん広き野の遂に果つるまで

森はその深き処に青き花の美しきあり
その花獲んと我等世に出でしなり
花は夙にそよぎ川は水に鳴る
しかして青き花を獲んとする者はまた
ヴァンダー・フォーゲルたらざるべからす

 このヴァンダー・フォーゲルの「青い花(ブラウエ・ブルーメ)」の唄戸の響く所、ドイツの夏は青少年のものである。

 ノイ・ドイッチュランドは、同じく今世紀の初め頃できて、ヒットラー・ユーゲントにより解散させられ、戦後再び盛んになったカトリック系の青少年運動である。偶然、私のもっとも親しかった友人の二人ばかりがノイ・ドイッチュランド出身だったので、私も何度かその行事に参加する事があった。参加メンバーの資格はギムナジウムの生徒だけだから、いちおう良家の子弟という事で、これがプファート・フィンダー(ドイツのボーイ・スカウト)と異なる点である。そのためか、両者はあまり仲がよくないようだ。プファート・フィンダーの方は身分に区別なく、国民学校(フオークス・シューレ)でもギムナジウムの者でも構わない。だからノイ・ドイッチュランドは多少貴族的、プファート・フィンダーの方は平民的と言えよう。ノイ・ドイッチュランドに対応する女子のグループはへーリアントと呼ばれ、これも女子ギムナジウムの出身者だけであり、プファート・フィンデリン(ガール・スカウト)にくらべて、やや上品である。私は両方に知人があったけれども、やはり、より礼儀の正しいノイ・ドイッチュランドとへーリアントの人達の方が感じがよかった。私がノイ・ドイッチュランドの会によく出る事に対し、プファート・フィンダーの知人たちはあからさまな反感を示した。

 エムス河畔にキャンプしているノイ・ドイッチュランドの生徒の所についた時は、雨に降られてひどい目にあった。連中もやる事がないものだから、小屋の中で終日ギターを弾いて唄っていた。それでも朝起きると、みんなミサに出た所はカトリック的である。神父さんもついていて野外ミサをやる。

 ノイ・ドイッチュランドは他のヴァンデルンク団体と違って、面白い事には、大学に入ってからも引き続き学生連盟の如きものを成している。毎週一度は必ず集まって音楽会をやったり、講演会をやったり、委節季節にはダンス・パーティをやり、また、カーニバルのお祭りをやっていた。

 ドイツの汽車はクペー式(コンパートメント)になっているのが多い。六人一部屋という事になる。私は汽車の旅をする時いつでも、ヴァンデルンク用の歌集をポケットに持っていたから、窓外の景色に少しでも退屈を感じた時は、いつでもこれを取り出して、同室の客に「小さな声で歌ってもよいか」と聞く事にしていた。

 そうでなくても外国人に対しては好意ある好奇心を押えがたく思っているうえに、唄ときたら目のないドイツ人の事である。間違いなく「いいとも、いいとも。一緒に歌おう」と言ってくる。私の経験した限りでは例外はなかった。そしてそのコンパートメントは楽しい合唱の場となるのである。

「俺の家は家中唄が好きだ。急ぐ旅でないなら寄って行かないか」

と言ってくれる人もたまには出てくる。そういう時は遠慮せずに途中下車して泊めてもらう事にしていた。そしてその家族の人と、歌い、語り、食らい、ある時は踊って深更に及ぶのであった。そして、まったく見知らぬ所の見知らぬ家のベッドに入った時は、自分の頬をつねっては、「これは夢かしらん、本当かしらん」と思い迷った事である。

 私がチュービンゲンの美しい大学町と、ウーランドが好んで歩いたというシュヴァーベンの森と、狂ったヘルダーリンが住んだ塔のそばを流れるネッカの川を知ったのは、やはり、ウィーン帰りの汽車で、同じクべーに乗った人に誘われてであった。

 西南ドイツは、特に美しい風景と愛すべき民謡の多い地方である。ドナウ川がまだ小川にすぎないウルムの町を過ぎる頃から、日が傾きはじめ、ドイツ・ロマンティーク文学の発生にふさわしい景観が現われ始めた。同じコンパートメントの人達と、私は夕の唄を次から次へと歌った。そして坂の多いシュトットガルトの町の灯を見た時、我々は別れなければならない事を知ったが、双方で別れがたく感じた。そして誘われるままに私もここで中途下車して、コルピング・ハウスに一泊し、翌日はバスで二、三時間で行けるチュービンゲンを、この人達の案内で訪ねる事にしたのである。

緑したたるネッカのほとり
チュービンゲンは坂の町
古い家
赤い屋根
見はるかす
中世のお城
碧眼の
金髪の
シュヴァーベンの乙女
われをさそいて
緑なる
ネッカのほとり
家古く
屋根赤き
チュービンゲンの

  町にそそる
  古の城にさそいて
  キスを与えぬ

 これはチュービンゲンの城に立った時の私のファンタジーである。そしてこの城の裏手の方にある、ウーランドが好んで歩いたという森の小径を散歩しながら、ヴァンダー・リートを歌った事であった。

 ヴァンデルングしている時、私はいつもギムナジウムの生徒に間違えられた。骨格の発達不足のせいか、日本人は一般に若く見られる傾向があるが、私はその中でも特に若く見える方だから仕方がない。

「もうギムナジウムは終わったのかね。」というのが、よく受けた質問であった。私はいつも、
「はい、終えました。」と答えていた ー 実は大学院まで終えていたのだが。実際ヴァンデルングしている時は、身も心も若がえって、子供のような気持ちであったから、「高等学校を終えました」といっても実感としては変でなかったのである。そのためか、私は滞独中、身長が目立って伸びたため、持って行った洋服もズボンも、何もかも短くなって困った。
 考えてみると、旧制中学の境は厳しい戦争下で学徒動員、戦後は廃墟の東京で食うや食わずの学生生活をしなければならなかった私には、ドイツでの生活は失われた少年時代を取り戻す事を意味していた。唄と、森と、牧場と、自転車と、光と、風と、雨と−ヴァンデルングによって、私はあるべき少年の生活を、故国においてではなく、異郷において体験したのである。

渡部昇一・ドイツ留学記より
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