■日本ユースホステル協会史
■1951〜1960
☆協会発足にいたるまで
☆日本初のユースホステル
☆日本ユースホステル協会の誕生
☆日本ユースホステル協会設立
☆グループの誕生と行事の活発化
☆国際YH連盟への加盟
☆公営ユースホステルの建設
☆事務所移転と直営YH誕生
■1961〜1970
■1971〜1980
■1981〜1990
■1991〜2000
|
ユースホステル協会の誕生
■日本ユースホステル協会の誕生
一方、昭和16年、文部省はすべての青少年団体を解散、大日本青少年団に統合再編成させましたが、戦争激化にともない昭和20年6月、これも解散させられました。戦争が終わった後、各地で再生の胎動をつづけていた青年団活動は、昭和23年再建の第一回全国青年団協議会を開催するに至り、昭和26年には、日本青年団協議会の結成をみました。当時、日本青年館の事務局長であった横山祐吉は同年6月、第2代の日本青年団協議会事務局長に就任しました。
これより先、同26年2月、米国国務省の招きで「アメリカ教育視察団」が訪米しましたが、一行の団長、横山祐吉はアメリカユースホステル協会会長であったロックフェラー3世に合い、ユースホステル運動についていろいろな知識を得て帰国しました。同年9月横山は、日青協第3回理事会において、「ユースホステル運動を推進する件」を提案し承認を得ています。
その後、日本ユースホステル協会の設立および各支部組織の発足にあたって、日青協関係者の協力によるところが多くあるのは、前述のように横山祐吉と日青協との関係があったからです。また、小金井浴恩舘や、協会設立記念ホステリングの舞台となった、山中湖清渓寮などは青年団ゆかりの建物です。
昭和26年初夏、横山はこの運動を日本ではじめるべく親友中山正男(当時東光石油社長)に相談したところ、中山は荒廃した日本を再建するのは青少年の健全育成からであるとの信念から賛意を表し、共に運動をはじめることになりました。
当時、すでに運動に着手していた学生ワンダーフォーゲルの関係者は、このことを知ってさっそく、中山をたずね話し合った結果、相提携してこの運動を推進することになりました。ジャーナリストや政財界に顔のひろい中山は、青年運動の理解者である下中弥三郎(平凡社社長、世界連邦主唱者)をまずこの運動の賛同者として口説きおとしました。その後関係者の努力で短時日のあいだに、次々と幅広い賛同者や理解者は増えてゆき、協会設立の準備は急速にしかも着々と進んでいきました。
■ユースホステル会員証第一号
ユースホステル会員証の第一号は、下中弥三郎日本ユースホステル協会初代会長です。ユースホステル運動をはじめるに当たって、平凡社社長であった下中弥三郎先生の協力を求めるため、中山正男、横山祐吉の両氏が、平凡社の社長室をたずねました。ユースホステル運動のあらましを話して「いい運動ですが、金がなくて困っている、先生頼みますよ」と、中山氏が単刀直入に切り出しました。
「いいだろう。毎月2万円出そう」
と下車社長の快諾です。当時の2万円は大きな額でした。この協力のおかげで、ユースホステル運動は順調にすべり出したといっても過言ではありません。 下中先生から、「ホステルはホスピタリティの語源から来たもので、ユースホステル運動は親切運動である」と教えられたのもこの時です。
■NO SUPPORT NO CONTROL
戦後の一時期、C.I.E(民間情報教育局)は文部行政に介入し、国が民間団体(運動)に資金を提供したり、または指導するのはおかしいと、「ノーサポート、ノーコントロール」を打ち出しました。このため昭和24年制定の社会教育法は、第13条において「国および地方公共団体は、社会教育団体に対し補助金を与えてはならない」と規定しました。このため各団体は一時期活動資金捻出に苦労しました。昭和26年講和条約締結後、このような占領政策は徐々に姿を消し、日本独自の政策がとられるようになり、前述の社教法13条も、昭和34年に現行の如く改訂され補助金の支出が可能となりました。日本ユースホステル協会が国庫補助を受けはじめたのもこの年、昭和34年からです。
|