■日本ユースホステル協会史
■1951〜1960
☆協会発足にいたるまで
☆日本初のユースホステル
☆日本ユースホステル協会の誕生
☆日本ユースホステル協会設立
☆グループの誕生と行事の活発化
☆国際YH連盟への加盟
☆公営ユースホステルの建設
☆事務所移転と直営YH誕生
■1961〜1970
■1971〜1980
■1981〜1990
■1991〜2000
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協会発足にいたるまで
■昭和初期〜昭和26年(1951)
青少年の旅行のための宿舎 昭和のはじめ、日本では青少年のグループ旅行のために特別な宿舎は存在しませんでした。後年盛んになった修学旅行でさえも、宿舎には旅館を使うのが常識であり、それは現在でもほとんど変わっていません。青少年個人の旅行の場合も、一般人と同じように旅館を使うことが多く、ただ懐具合の関係でなるべく低廉なところを探すほか、方法はありませんでした。登山やスキー、あるいは海水浴などが盛んになるにつれ、山小舎や民宿の利用が多くなり、このような施設も増えてきて、比較的若い人が使ってはいたが青少年専用というわけではありませんでした。
日本にユースホステルがはじめて紹介されたのは、昭和6年大日本聯合青年団(日本青年団協議会の前身)が南大路謙一の記述になる「青年宿に関する調査」を刊行し、ドイツにおけるユーゲント・ヘルベルグ(ユースホステル)の実情を紹介したのが最初でした。しかしこの時はほとんど関係者の関心、はひかず、具体的な運動には発展しませんでした。
昭和13年(1938)に鉄道省(現在の運輸省、国鉄は戦後鉄道省より分離してできた)が、文部省、厚生省、大日本聯合青年団、日本旅行協会(現、日本交通公社)とはかり、全国各地に青年宿泊所を含めた26の青少年徒歩旅行コースを指定し、鉄道運賃を5割引するなどして、青少年徒歩運動を大いに奨励したものでした。これはすでにドイツに於てヒットラー・ユーゲントに接収されていたユーゲント・ヘルベルグを日本的に翻案し、実施されたものですが、戦争が苛烈になると姿を消してしまいました。
■昭和初期の野外活動の発展
日本において自然への新しい考え方が芽生え近代的な旅行形態が誕生したのは、昭和初期の頃です。旧来の「物見遊山」(ものみゆさん)という言葉に象徴される享楽的な考え方に対し、スポーツ、レクリエーションを中心とした旅行という積極的な考え方が若い人たちを中心に急激に拡がってきました。
登山、ハイキング、ピクニック、キャンプ、スキーなどの野外活動が新しい感覚をもって諸外国から紹介され、鉄道省の強力なキャンペーンもあって参加人口は急増しました。野や山や海辺には、リュックサックを背負って出かける人たちが多くなり、これらスポーツ、レクリエーションの愛好団体が数多く組織されました。
また、それぞれの分野の雑誌、機関誌、案内書、技術指導書、紀行図書などが数多く出版されました。このように昭和初期から太平洋戦争に至るまでに、脱都会的な自然復帰運動が非常に盛んになりましたが、戦争がはじまるとそれは次第に消滅するか、国の要請から戦争予備運的なものに変わっていってしまいました。
ワンダーフォーゲル運動もその一つでした。
昭和6年(1931)、出口林次郎によってドイツから紹介されたこの運動は、奨健会 W・V部として発展し、最盛期には全国で5万人にも及ぶ会員をもつにいたりました。この運動は学生のあいだにも広まり、昭和12年ごろには各 大学が集まって学生WV連盟を結成しました。第2次大戦中は行軍班などに編制替えされた連盟の活動も中断しましたが、昭和23年(1948)には、全日本学生連盟として復活しました。
■戦前のユースホステル国際交流
日本に於けるユースホステル運動発足まで 国際交流の面から戦前のユースホステル運動についてみてみますと、昭和11年(1936)はじめてアメリカのユースホステルメンバー約30名が日本を訪れています。この時は賀川豊彦(社会運動家)が中心となり、その受け入れの世話をしたといいます。
昭和13年(1938)には、大日本聯合青年団によって日本とドイツの青少年団の交歓行事が行われました。日本からは30名がドイツ各地を訪問しましたが、現地での宿舎はすべてユースホステル(ユーゲント・ヘルベルグ)を使用したといいます。
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