会員数の減少

■日本ユースホステル協会史
■1951〜1960
■1961〜1970
■1971〜1980
  ☆日本ユースホステル協会史
  ☆横山祐吉氏の退任
  ☆山岡荘八と上田常陸の死
  ☆伊賀省三・藤井務理事長
  ☆なぜ会員は激減したのか?
■1981〜1990
■1991〜2000

会員数の減少

 昭和47年(1972)の63万4195名を頂点として、翌48年は 60万8950名と減少。49年は60万2320名と横這いに推移したものの、昭和50年には、狂乱インフレによる影響を受けて、会員数は50万7843名と一年間で10万名も急減しました。その後も会員数の減少傾向は止まらず毎年減少し続け、昭和54年には、38万台まで落ち込みました。

 1960年代に、会員が増えたのも急激でしたが、会員数が減少するのも早かった。60万名を越えた会員が、わずか5年で40万名を割り、ピーク時の3分の2に減ったわけです。

 同時期における宿泊者数で比較してみますと、昭和47年338万泊から54年には224万泊となっています。ユースホステル数は585ヶ所(47年)が 558ヶ所(54年)に、収容定員は40197名(47 年)から35636名(54年)に推移しているので利用率は下がり47年当時23パーセントあったものが、54 年には17.2パーセントまで落ち経営を圧迫するようになりました。

 数の多いことだけが良いことではありませんが、このような数の減少は、運動面においても財政面においても影響することが大きく、低落が低落を招く悪循環の原因となっています。

 昭和48年(1973)に世界を襲ったオイルショックは、日本においては狂乱インフレを引き起こし、各方面に大きな影響を与えました。これはレジャー界においても例外ではありませんでした。レジャーブームに乗って伸びて来た一面もあるユースホステル運動も、このオイルショックの前年から会員減少時代に入りましたが、その後の連続しての減少は単にオイルショックの影響だけではなく、ほかにもいろいろと原因が考えられます。

 とりわけ重要な影響を与えたのは、各種エコノミー宿泊施設の出現でしょう。昭和31年に発足した「国民宿舎」は、昭和47 年には全国で287ヶ所(この年ユースホステル585ヶ所)、 宿泊利用者は466万(ユースホステル337万)、利用率40パーセント(ユースホステル23パーセント)でした。これが昭和54年には施設数340ヶ所(558ヶ所)、利用者462万(224万)、利用率は下がったが33.5パーセント(17.2パーセント)となっています。

 「国民休暇村」は昭和36年に発足しましたが、昭和47年には全国で21ヶ所、宿泊人員は68万、利用率47パーセントでした。これが54年には施設数30ヶ所、宿泊者850万と伸びましたが、利用率は 38.7パーセントという数字になっています。

 昭和30年ごろから始まった信州のスキー民泊が発祥という「民宿」は、昭和47年当時全国で 19000軒でしたが、54年には42パーセント増の27000 軒に達しています。

 さらに「ペンション」が昭和45年に草津にできて10年の歴史を経た昭和55年には650軒以上が営業をしています。

 以上の施設以外にも、割安料金で利用できる公共の宿泊施設がいろいろと出現しました。民間でも、地方都市には手軽に利用できるビジネスホテルが続々と出現しています。宿泊の機能面のみを見れば、ユースホステルの競争相手は10年前とは比べものにならない程、大量かつ良質のものが出現していることになります。

 その他の減少要因としては、ベビーブーム後の青少年人口の減少、一般市民生活レベルの向上にともなう若者の嗜好の変化(享楽型多様化自由志向)、新幹線・高速道路網・ジャンボジェットなどによる大量高速輸送時代に象徴される交通体系の大変革、マイカー時代の到来など旅の楽しみ方も変わり、ユースホステルの旅も社会現象を無視するわけはいかない転換期に立ちいたっています。
もっと詳しいことを知りたい方は、日本ユースホステル協会(http://www.jyh.or.jp/index2fr.html)へ御連絡ください。

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