■日本ユースホステル協会史
■1951〜1960
■1961〜1970
☆会員増加と支部協会の完成
☆国際行事の活発化
☆広報活動の成功
☆青年の船と国際ユースホステル総会
☆二人の偉大な指導者を失う
■1971〜1980
■1981〜1990
■1991〜2000
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二人の偉大な指導者を失う
昭和36年(1961)、われわれは二人の偉大な指導者を失いました。一人は日本ユースホステル協会名誉会長下中弥三郎です。この年2月21日、82歳で急逝した下中は、青年を心から愛し、ホスピタリティ(厚遇精神)を強調しつづけました。協会設立以来、賛助会費を毎月酸出し、日本ユースホステル協会の資金的援助に功績があり、またアジアユースホステル会議の提唱者でもありました。一方平凡社社長としては、世界的出版物「世界大百科事典」を完成したり、世界連邦主義を唱導したり、世界平和アッピール7人委員会委員としても活躍するなど、平和の推進、文化の向上など幅の広い業績を残しました。
もう一人はユースホステル運動の創始者であるリヒャルト・シルマンで、12月14日、87歳でこの世を去りました。ユースホステルの父として慕われていたシルマンの死に対して、世界中のユースホステル関係者は、深い哀惜の意を表しました。
またこののち昭和44年、日本におけるユースホステル運動生みの親の一人である中山正男が、10月22日突如急逝しました。
中山はユースホステル運動の発足に貢献したばかりでなく、強烈な個性を発揮し、政財界に顔の広さを利用し、国費によるユースホステルの建設、青少年の海外派遣、初の国際ユースホステル総会日本開催などのほか、「青年の船」の生みの親でもあり、「馬喰一代」の作者として有名であり、(財)自転車道路協会会長、理研映画KK社長でもありました。つねに青年を愛し、青年とともにあって彼の著になる「つぎに来る旅人のために」を文字どおり実践した人生でした。
昭和45年6月、北海道網走国定公園トーフツ湖東岸に建設された直営ユースホステルは、この地方出身の中山ゆかりの地ですので、その功績を讃えて「中山記念小清水ユースホステル」と命名されました。また45年5月には第2代会長臼井餃二を、11 月には常任顧問の評論家大宅壮一を失いました。どちらもユースホステル運動草創期からのよき理解者であり、後援者でした。
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