元号 |
西暦 |
年齢 |
事件 |
明治7年 |
1874 |
0歳 |
東プロイセンのハイリゲンバイル郡のグルネンフェルトにシルマンが生まれる。 |
明治13年 |
1880 |
6歳 |
シルマンの父(アウグスト・シルマン)が経営する民衆学校(小学校)に入学。 |
明治20年 |
1887 |
13歳 |
アイゼンベルクの祖父の学校(zweiklassigen Schule)に入学。 |
明治22年 |
1889 |
15歳 |
オーテルスブルグのフリードリヒス村の予備校に通う |
明治24年 |
1891 |
17歳 |
ヴァルダウ師範学校に入学 |
明治25年 |
1892 |
18歳 |
ヴァルダウ師範学校の修学旅行でリーゼンゲビルゲ地方に徒歩旅行 |
明治26年 |
1893 |
19歳 |
ヴァルダウ師範学校を退学。サムランドで家庭教師を行う。 |
明治28年 |
1895 |
21歳 |
カラレネの師範学校で教員検定試験をうけて合格。ロエッツェン郡のケーニヒスへーエにあるポーランド人の教会学校に奉職。 |
明治31年 |
1898 |
24歳 |
プロイセン・アイラウ郡のシュロムベーネン校に転任 |
明治34年 |
1901 |
27歳 |
ルール地方の中心地ゲルゼンキルへンに転任。 |
明治35年 |
1902 |
28歳 |
この頃、ザウワーランド山岳協会(SGV)にシルマンが入会する。 |
明治36年 |
1903 |
29歳 |
アルテナのラーメデ地区に転任。 |
明治38年 |
1905 |
31歳 |
アルテナのネッテの学校に転任。 |
明治39年 |
1906 |
32歳 |
ザウワーランド山岳協会(SGV)のフィンネントロップの道標整備委員会の会合でウィルヘルム・ミュンカーと出会う。 |
明治42年 |
1909 |
35歳 |
シルマンデー(ユースホステル誕生の日)の事件がおきる。『青少年の旅と私が約束できること(一九〇九年)』」という論文を発表。各地の教職員新聞に論文を投稿するが全てボツとなる。 |
明治43年 |
1910 |
36歳 |
シルマン、ザウワーランド山岳協会(SGV)にユースホステルのための資金援助を提案するも否決される。ミュンカーとシルマンは、この件で意気投合する。ケルニッシェ・ツァイトング紙にシルマンの記事が掲載。第二の論文、「民衆学校のホステル」を発表。プロシアの体操教師連盟で講演。 |
明治44年 |
1911 |
37歳 |
ドレスデンで行われた第一回「青少年の日」の講演を行う。 |
大正元年 |
1912 |
38歳 |
ハイデルベルグの大会で、シルマンの案が採択される。ザウワーランド山岳協会(SGV)がユースホステルのための特別委員会をつくる。『民衆学校のホステル』から『ユースホステル(ドイツ語でユーゲントヘルベルゲ)』に変更。ゴルツ元帥が指導する「青少年ドイツ連合」がユースホステル活動に参加。初めてドイツユースホステル・ハンドブック(掲載百四十カ所)を出版。アルテナに世界最初のユースホステルが生まれ |
大正2年 |
1913 |
39歳 |
三百一町村にユースホステルを開設。全ドイツ、五百三十五カ所にユースホステルを開設。 |
大正3年 |
1914 |
40歳 |
シュトットガルトで開催の連邦会議で行われたシルマンの講演は、嵐のような拍手と歓声をもって迎えられた。ザウワーランド山岳協会(SGV)のユースホステル特別委員会を解散。山岳協会から離れて自主的な組織を作り、組織名をドイツユースホステル本部とする。第一次大戦勃発、シルマンは招集され、軍務で大活躍し前戦兵勲功章を受賞。クリスマス休暇事件が発生。 |
大正4年 |
1915 |
41歳 |
シルマン、下士官に昇格。 |
大正7年 |
1918 |
44歳 |
第一次大戦、終了。シルマン復員。 |
大正8年 |
1919 |
45歳 |
パリ講和会議。ミュンカー復員。ドイツユースホステル協会の事務局長に専念することにする。ドイツユースホステル中央委員会設立。全ドイツに七百軒ものユースホステルがオープン。 |
大正9年 |
1920 |
46歳 |
国ユースホステル七百カ所の住所を載せたハンドブックと、機関誌を出版。シルマン、ミュンカーの手配で民衆学校の雑務から解放される。 |
大正11年 |
1922 |
48歳 |
狂乱インフレで、ドイツユースホステル協会の財産が紙くずになってしまう。 |
大正13年 |
1924 |
50歳 |
シルマン、子供村の発想を思いつく。 |
大正14年 |
1925 |
51歳 |
子供村スタート |
昭和元年 |
1926 |
52歳 |
シルマン、ザウワーランド山岳協会の会長を辞任。 |
昭和4年 |
1929 |
55歳 |
世界恐慌がおこる。 |
昭和6年 |
1931 |
57歳 |
蘭、英、スコットランドの各ユースホステル協会の書記長がシルマンとミュンカーに面会を求めてくる。 |
昭和7年 |
1932 |
58歳 |
恐慌のために子供村は閉鎖。第一回国際ユースホステル会議が、アムステルダムYMCAホテルで開催。 |
昭和8年 |
1933 |
59歳 |
ドイツ議会は、ヒトラー首相への全権委任を決定。ナチスが、ドイツユースホステル協会を乗っ取る。ミュンカー、ドイツユースホステル協会を辞任。ナチス主導で第二回国際会議をドイツ・ゴーデスベルクで開催。合衆国よりのモンロー・スミス夫妻が出席。 |
昭和9年 |
1934 |
60歳 |
第三回国際会議開催(イングランド)。副会長に、英のJ.キャッチプールが就任。シルマン、ナチスのヨハネス・ロダツをレスリングで子供扱いにする。 |
昭和10年 |
1935 |
61歳 |
第四回国際会議開催(ポーランドのクラコフ)。シルマン、アメリカユースホステル協会の招待によってアメリカ視察。帰国後、シルマンは、ナチスの弾圧によってアルテナ城ユースホステルの責任者から外され、生活に困窮する。 |
昭和11年 |
1936 |
62歳 |
第五回国際会議開催(デンマーク)。ナチスによって議題は紛糾する。 |
昭和12年 |
1937 |
63歳 |
シーラッハに国際ユースホステル連盟会長の地位を退くよう命じられる。ナチスは、シルマンのパスポートを取り上げて、ドイツ国外へ出られないようにする。シルマンをアルテナ城から追放。シルマンの全ドイツのユースホステルヘの立入を禁止。シルマン、ヒルーグレーベンビースバッハ村で、恩給と自家菜園を作ることで生計をたる。 |
昭和13年 |
1938 |
64歳 |
第七回国際会議(スイス)で、シルマンが提唱した国際ラリーが開かれる。 |
昭和14年 |
1939 |
65歳 |
第二次大戦勃発 |
昭和19年 |
1944 |
70歳 |
アルテナ城で、シルマン七十歳の誕生会を開催。 |
昭和20年 |
1945 |
71歳 |
第二次大戦終わる。ミュンカー、「報道第一号」をヒルヘンバッハから、全国のユースホステル運動関係者に急送。 |
昭和21年 |
1946 |
72歳 |
モンロー・スミス夫妻がドイツに到着、シルマンを連れて占領軍の説得を行う。第8回国際会議(スコットランド)、シルマンとミュンカーがオブザーバーとして参加。ドイツ協会の加盟は却下。 |
昭和22年 |
1947 |
73歳 |
第9回国際会議(オランダ)。ドイツ協会の加盟は却下。 |
昭和23年 |
1948 |
74歳 |
第10回国際会議(アイルランド)。ドイツ協会の加盟は却下。 |
昭和24年 |
1949 |
75歳 |
第11回国際会議(デンマーク)。ドイツ協会の加盟は却下。アルテナ城において、正式に認可されたドイツユースホステル協会が発足。シルマン、ミュンカー、ドイツユースホステル協会より引退。 |
昭和25年 |
1950 |
76歳 |
第12回国際会議(イングランド)。ドイツユースホステル協会の加盟が認められる。 |
昭和26年 |
1951 |
77歳 |
日本ユースホステル協会設立。 |
昭和29年 |
1954 |
80歳 |
第15回国際会議(ザール地方)で開催。日本から横山氏が参加。日本ユースホステル協会の加盟が認められる。 |
昭和34年 |
1959 |
85歳 |
第20回国際会議(ドイツ)ユースホステル運動の誕生50周年を記念してドイツのアルテナ城で開催。 |
昭和36年 |
1961 |
87歳 |
シルマン、八十七歳の長寿を全うする。 |
昭和45年 |
1970 |
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ミュンカー、九十六歳の長寿を全うする。
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