ユースホステル百科   

■ユースホステル百科辞典
【1】 あ行
【2】 か行
【3】 さ行
【4】 た行
【5】 な行
【6】 は行
【7】 ま行
【8】 や行
【9】 ら行+わ行


■ユースホステル秘話
■ユースホステル支部協会の紹介
■国内のユースホステル
■海外のユースホステル
■相互リンクのユースホステル紹介

ユースホステル秘話

■スリービングシーツ

 ユースホステルの旅では、必携用具として「スリーピングシーツ」は欠かせません。YHに宿泊するときは、このシーツを使用しなくてはならないからです。いまでは全国的に普及して、ホステラー一にもなじまれていますが、昭和31年頃は、まだシーツは会員の手作りのものばかりでした。はじめて日本ユースホステル協会需品としてスリーピングシーツを作ったのは、故小野里賢一(元日本ユースホステル協会理事)夫人でした。生地のキヤロコや縫い糸を安く問屋から仕入れて、毎日徹夜作業で作製し、この売上金が当時の協会の資金づくりに役立ったのです。その後、利用者も増えてきたため、業者に製作を移し、本職の手によって造られ、発売されるようになりました。


■直営−ユースホステル第一号

 日本でユースホステル運動が興ってからしばらくのあいだ、利用されたユースホステルは友好団体の施設や旅館、山小舎の一部をホステルとして使用する、いわゆる契約ユースホステルのみでした。しかし、そのユースホステル活動は、最初からユースホステルとして設計され、建設された宿舎をベースとしてこそ活かされ、発展するということが関係者に認識されてきていました。施設として基準に合った公営ユースホステルはできましたものの、運営においては日本ユースホステル協会の趣旨にそいません。どうしても協会自らの手でホステルを造ろう、という要望が急激に広まりました。昭和35年7 月、協会関係者の熱意と工夫により、ユースホステル運動発足10年目にしてようやく協会は、自らのホステルを持つことができました。北海道支笏湖湖畔にできた「支笏湖ユースホステル」がそれです。

 この場所はもともと廃校になった小学校を千歳市より払い下げを受け会員専用ホステルとして使用(昭和30 年夏より)していたのですが、新築のホステルは緑の森の中、3角形のホステルマークをかたどった赤い三角屋根のエキゾチックな建物で、環境といい設計の斬新さといい、非常に印象的なものでした。

 建築費は、全国競輪施行者協議会からの特別寄附金によります。ここにユースホステル運動発足以来、全会員の悲願であった会員専用のホステルが誕生しましたが、これよりのち毎年継続的に建設される直営の第一号でした。


■スポーツ振興法 抜すい(36.1.16制定)

 第2条 この法律において「スポーツ」とは運動競技および身体運動(キャンプ活動その他の野外活動を含む)であって、心身の健全な発達をはかるためにされるものをいいます。
 第10条 国および地方公共団体は、心身の健全な発達のために行われる徒歩旅行、自転車旅行、キャンプ活動その他の野外活動を普及奨励するため、コースの設定、キャンプ場の開設その他の必要な措置を講ずるよう努めなければなりません。
 第11条 国および地方公共団体は、スポーツの指導者の養成およびその資質の向上のため、講習会、研究集会などの開催その他の必要な措置を講ずるよう努めなければなりません。


■修正されたIYHFバッジ

 国際コース・ホステル連盟(IYHF)の総会が、ヨーロッパ地域以外で開催されたのは、日本がはじまり(1968)です。これを記念して国際ユースホステル大会のシンボルマークの公募を広くもとめましたが、希望に合うデザインは、なかなか現れませんでした。

 それならば、ということで既存のIHYF バッジのデザインを使用することとしましたが、このマークにはヨーロッパからインド近くまで入っているがアジア地区は見当たらないものでしたので、金子智一が、アジアを含めた世界地図をアレンジして、新しいデザインを考えました。バッジ、ループタイもこのデザインで製造し総会を迎えましたが、これがIYHFの執行委員会で承認され、現在の国際マークになっています。


■ユース・ラリーのはじまり

 1936年9月、デンマークで開かれた国際Y H連盟総会において、緊迫する国際関係から IYHF会長の地位を退かざるを得なかった、リヒャルト・シルマンは、それでも希望をこめてホステラーの年次ラリー設立の可能性について、演説を行っています。

「オリンピック大会には、全世界のスポーツ団体が集まってくるように、われわれのワンダーリンググループも徒歩で出発し、毎年会議の開かれる場所に集合、各国の歌、ゲーム、フォークダンスなど立派な伝統を披露しようではありませんか。そうすることによって、われわれの会合の性格は変わり、もっと若返ると私は信じます」。

彼の提案は、2年後になって取りあげられました。すなわち国際ホステラーラリーが定期催し物として、国際会議の中に含まれるようになりました。
(グラハム・ヒース著、河合昌子訳「シルマン伝」より)


■誓いの言葉

 日本のユースホステルに「誓いの言葉」ができたのは、昭和29年10月30日のことです。いうまでもなく、これは運動の主旨を四つに要約したものです。当時の日本ユースホステル協会機関紙「日本ユースホステル協会ニュース」の題字下に、ユースホステル運動の主旨が解説風に掲載されていましたが、この主旨を要約し、誓いの言葉として「日本ユースホステル協会ニュース」の昭和30年1月号から、カコミで掲載されるようになりました。
 この誓いの言葉が、昭和40年8月、ポーランドで開催された第25回国際ユースホステル連盟総会の会場で、グラッスルIYHF会長によって紹介され、世界のユースホステル関係者の強い共感を呼びました。


■ドイツ協会より兼松理事長
 シルマンメダル授与
 さる7月2日、来日中のオットー・ヴィルチンゾーン国際ユースホステル連盟TユースホステルF)会長の歓送会の席上、ドイツユースホステル 協会会長でもあるオットー氏より櫻内会長、長谷川副会長、吉田常任理事の列席する前で、ドイツユースホステル協会最高の栄誉賞であるリヒャルト・シルマン メダル」が兼松保一理事長に贈られました。
 このメタルは、青少年の国 際交流と国際ホステリングの 促進およびその国におけるY  H運動の振興発展に寄与した ことをドイツユースホステル協会の役員会で評価するに価すると認め られた人々に授与されるもの で、兼松理事長の日本におけ る日本ユースホステル協会創設時より永年にわ たる中心的活動とIYHFを はじめとする国際活動、特に アジア地域への貢献が認めら れたものです。
 日本では、ユースホステル運動の日本の創始者の一人で、IYHF の副会長をも務めた横山祐吾氏鼓人)も過去に受賞しています。
 兼松理事長は、今回の受賞にあたり、この栄えある受賞は、私一人だけのものではなく、日本のユースホステル関係者一同の努力によるものであり、JYHが受賞に価する貢献をしてきたことを示すものです」と述べています。
1988(昭63)年7月21日発行「ユースホステル新聞」より


■ユースホステル会員証第一号

 ユースホステル会員証の第一号は、下中弥三郎日本ユースホステル協会初代会長です。ユースホステル運動をはじめるに当たって、平凡社社長であった下中弥三郎先生の協力を求めるため、中山正男、横山祐吉の両氏が、平凡社の社長室をたずねました。ユースホステル運動のあらましを話して「いい運動ですが、金がなくて困っている、先生頼みますよ」と、中山氏が単刀直入に切り出しました。
「いいだろう。毎月2万円出そう」
と下車社長の快諾です。当時の2万円は大きな額でした。この協力のおかげで、ユースホステル運動は順調にすべり出したといっても過言ではありません。 下中先生から、「ホステルはホスピタリティの語源から来たもので、ユースホステル運動は親切運動である」と教えられたのもこの時です。


■NO SUPPORT NO CONTROL

 戦後の一時期、C.I.E(民間情報教育局)は文部行政に介入し、国が民間団体(運動)に資金を提供したり、または指導するのはおかしいと、「ノーサポート、ノーコントロール」を打ち出しました。このため昭和24年制定の社会教育法は、第13条において「国および地方公共団体は、社会教育団体に対し補助金を与えてはならない」と規定しました。このため各団体は一時期活動資金捻出に苦労しました。昭和26年講和条約締結後、このような占領政策は徐々に姿を消し、日本独自の政策がとられるようになり、前述の社教法13条も、昭和34年に現行の如く改訂され補助金の支出が可能となりました。日本ユースホステル協会が国庫補助を受けはじめたのもこの年、昭和34年からです。


■黒くなった壁

 日本ユースホステル協会の事務局が東京駅前の旧丸ビルの6 階668号室にあった頃のことです。2月の終わり頃になると学校休みで旅に出ようとする若い人たちが、ユースホステルのあることを知って丸ビルの事務局に来はじめいよいよシーズンになりますと、「うなぎの寝床」の別称のある細長い事務局には入り きれずに、2百人から3百人が廊下にあふれて、長い列ができました。入会申込書を書く机もない、そこで立ったまま壁で入会の書き入れをしました。その壁がいつの間にか真異になりました。あまり大勢ならぶので家主の丸ビルから苦情をうけ、昭和35年3月に事務局を富士観光ビルに移しました。


■直営−ユースホステル第一号

 日本でユースホステル運動が興ってからしばらくのあいだ、利用されたユースホステルは友好団体の施設や旅館、山小舎の一部をホステルとして使用する、いわゆる契約ユースホステルのみでした。しかし、そのユースホステル活動は、最初からユースホステルとして設計され、建設された宿舎をベースとしてこそ活かされ、発展するということが関係者に認識されてきていました。施設として基準に合った公営ユースホステルはできましたものの、運営においては日本ユースホステル協会の趣旨にそいません。どうしても協会自らの手でホステルを造ろう、という要望が急激に広まりました。昭和35年7 月、協会関係者の熱意と工夫により、ユースホステル運動発足10年目にしてようやく協会は、自らのホステルを持つことができました。北海道支笏湖湖畔にできた「支笏湖ユースホステル」がそれです。

 この場所はもともと廃校になった小学校を千歳市より払い下げを受け会員専用ホステルとして使用(昭和30 年夏より)していたのですが、新築のホステルは緑の森の中、3角形のホステルマークをかたどった赤い三角屋根のエキゾチックな建物で、環境といい設計の斬新さといい、非常に印象的なものでした。

 建築費は、全国競輪施行者協議会からの特別寄附金によります。ここにユースホステル運動発足以来、全会員の悲願であった会員専用のホステルが誕生しましたが、これよりのち毎年継続的に建設される直営の第一号でした。
もっと詳しいことを知りたい方は、日本ユースホステル協会(http://www.jyh.or.jp/index2fr.html)へ御連絡ください。

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