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貧乏旅行世界一周
ユースホステル運動とワンダーフォーゲルの出会い
1949年(昭和24)、占領下にあった日本に、アメリカユースホステル協会のモンロー・スミス夫妻をリーダーとする「ユース・アーゴシー」一行が来日した際、YMCAのR・L・ダーギン及び全日本学生ワンダーフォーゲル連盟にその世話を依頼することになります。
受け入れ側の全日本学生ワンダーフォーゲル連盟は、明治大学教授の出口林次郎を会長に、立教、慶応、明治、法政、中央、日本、早稲田、青山学院などが参加して連盟を作り、そこには顧問格の福井正吉(後のJYH常任理事)、OBの藤井務(後にJYH理事長)、吉田晴彦(後にJYH常任理事)、現役の前川宗幸委員長(後に東京都ユースホステル協会専務理事)、兼松保一副委員長(後にJYH理事長、副会長、IユースホステルF執行委員)などがいました。
彼等は、ワシントンハイツ(現国立オリンピック記念青少年総合センター)でタイパーと会い、ここで初めてユースホステル運動と出会うことになります。
ユースホステル運動の発祥の地が、特にワンダーフォーゲル運動とは不可分なドイツにあることで関心を深めました。まず、当時アムステルダムにあった国際ユースホステル連盟本部事務局に連絡を取ることとして、全日本学生ワンダーフォーゲル連盟のあった中大事務局に、形ばかりの協会を作って「ユースホステル協会」の看板を掲げました。
1951年(昭和26)、彼等はそうしたタイミングの中で、新聞情報から「日本でのユースホステル運動開始」の記事を読むことになります。福井正吉と委員長の前川宗幸、副委員長の兼松保一などが、中山正男先生を訪ね「我々がすでにこの運動をすすめている」ことを告げました。この時、中山正男先生は「それならこれからは力を合わせて是非一緒にやろう」と提案しました。中山正男先生にしてみれば、現場を動かしてくれる学生の存在は運動推進の貴重な戦力であると直観的に判断しました。この時点で、日本のユースホステル運動の2つのルーツはひとつになりました。
1953年(昭和28)の理事会では、早くも組織改定が行なわれ、横山専務理事を中心にする執行体制が成立する。理事長制は廃止されて専務理事の清水は参与に、理事であった金子智一、吉田晴彦、前川宗幸、兼松保一などは、現場活動の指揮を取る幹事に就任しました。
貧乏旅行世界一周
兼松保一氏も、アメリカへ留学の帰りにアメリカのユースホステル協会創始者のモンロー・スミスについて、トラックでヨーロッパを旅し、各地のユースホステルに泊まっています。
この時の旅は1961(昭36)年に秋元書房より『貧乏旅行世界1周』にまとめられています。1956(昭31)年、兼松保一28歳の時の旅行で、ドイツのフランクフルト効外のグラーベングッヒバッハにユースホステル運動創始者リヒアルト・シルマン宅を訪れます。当時はシルマンは満81歳にもかかわらず、一行のために自分でリンゴをつぶして、ジュースを作ってくれました。兼松保一たちは納屋の屋根裏につまれた干し草の上に寝ました。
この本は、当時、多くの青年たちに読まれ、海外に旅する志をうえつけることになりました。
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