下中弥三郎先生

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下中弥三郎先生

下中弥三郎先生の思想

 日本ユースホステル協会の初代会長です。出版人であると同時に教育者、思想家、政治家。世界連邦を提唱。世界連邦建設同盟の理事長に就任。横井小楠、西郷を結ぶ思想系譜の中に世界連邦思想があるというユニークな発表をしています。特にカント、ガンジー、トルストイ、西郷を尊敬しています。

 公職追放令が解けて昭和二十六年平凡社社長に復活。そして賀川豊彦との出会い。賀川は、終戦のとき東久邇内閣の参与となり、日本の国際社会に復帰は、政府の運動じやなくて、民間の運動として、世界連邦というものを旗印しに平和主義一本でいく以外に、国際復帰はできませんと答えていますが、その賀川との出会いで下中弥三郎先生は、

「原爆を落とされた広島で世界連邦アジア会議を開き、アジアの独立と世界の連帯を呼びかけようではないか」

と発案し、インド、ベトナム、ラオス、カソボジァ、フィリピン、インドネシア、マレーシアこういうところから民間代表を集めて、アジア会議を開きました。昭和二十七年十一月のことです。下中の先見の明というか、この会議が引きがねとなって、一九五五年のアジア・アフリカ会議、つまりバンドン会議に思想的にはつながっていきます。

 また、パール博士を広島の世界連邦アジアアフリカ会議に招き、博士と一緒に東京、横浜を振り出しに名古屋、大阪、岡山、広島、博多、福岡とまわり、パール博士が義兄弟の契りを結ばれました。

下中弥三郎先生とユースホステル運動

 中山正男先生は昭和26年9月、横山祐吉を伴い、平凡社の下中弥三郎社長に会見を申し込んでいます。中山は「ユースホステル運動を日本で開始したい」旨を告げ「それには資金がないので援助して欲しい」と要請しました。下中社長はこれをすぐに快諾し、月に2万円の援助を約束しています。この金額は、今日の価値に直せば、50〜60万円にも相当する金額です。

 この時、下中社長はユースホステルの語源について2人に語っています。「カントの平和論の中に、世界が平和になるためには3つの原則があるんですよ。そのひとつがホスピタリティといって、人を厚遇する精神なんです。どこの国に行っても厚く遇され、またどこの国から来ても厚く遇します。暖かく親切にもてなす、すなわちホスピタリティからホステルの言葉が生まれたもので、病気を治す病院がホスピタルになったんです。だからYH運動は親切運動でもあるんだ」と解説し、すでにユースホステル運動の存在を熟知されていました。

 また、映画「馬喰一代」のスポンサーの1人でもあり、中山を公私にわたって面倒をみていた東洋醸造の臼井皎二社長も月5万円を提供しています。さらに、牛尾の紹介によって関係を深めた森永製菓からは、稲生平八宣伝部長(後に社長、JYH理事)の力添えで毎月5万円(後に8万円)を援助してもらっています。このように、創生期に社会から信頼される支援者がいたことが、YH運動立ち上げの成功を握るポイントでもありました。
 リヒャルト・シルマンに関する質問ならびにユースホステル運動史に関する詳しい質問に関しては、電話での問い合わせは、宿泊業務に支障をきたしますので御遠慮ください。当方は、宿業を営んでいますので、急に御連絡をいただいても、対応しきれるものではありません。日本ユースホステル協会の方に御連絡をお願いいたします。


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