リヒァルト・シルマンは、1874年5月15日に生まれました。
父は、教師でした。彼は、学校で遊びながら大きくなりました。
17歳の時、ケーニスベルクの近くにある師範学校に通いました。そして、1892年、修学旅行に出発しました。生まれて初めて『山』を見たシルマンは、感激のあまりに、地面に手をあててみたり、岩が本当に石からできているのかと岩肌をたたいたりしました。
シルマンの生まれた東プロシアには山が無かったのです。そんな青年たちが山を見たときのショックといったらありません。島育ちの私も、生まれて初めて北アルプスを歩いたときに受けたショックがありますから、シルマンの気持ちはわかります。
シルマンたちは、この徒歩旅行にうけたショックを引きずりました。彼らの人生観は、旅行前と全く変わってしまったのです。もう息苦しい教室の授業には戻れなかったのです。不平不満の声があがり、学生の間に広がり卒業を直前に、デモになり、シルマンは、放校処分になってしまったのです。
しかし、そんなシルマンに手をさしのべた先生もいました。地理の先生でした。その先生は、シルマンに家庭教師の口を斡旋し、ドレベナウの地主(貴族)の家庭教師になることができました。そしてシルマンは、10人の子供の面倒をみることになり、学習計画の作成も全くの彼の自由にまかされたのです。
シルマンは、特別なカリキュラムを組みました。家の馬車に乗って遠足にでかけ、歌を歌ったりしました。それは、まるで映画『サウンドオブミュージカル』のような世界で、教師にとってのパラダイスでした。よき時代のドイツには、こんな家庭が、あちこちに存在していました。子供たちに家庭教師を雇い、家庭教師は、子供たちを歌と遠足で、のびのびと育てていたのです。こういう環境が存在する国に、ワンダーフォーゲルとユースホステル運動が生まれ発達したことは、偶然ではありません。
シルマンは、教員資格の勉強をコツコツと行いました。
そして、一年後(1895年.明治27年)。教員認可試験に合格。
シルマンは、マスリアの小学校の先生に任命されました。人びとはスラブ方言を使っていました。生徒60人中、ドイツ語を話すのはわずか4人。全く言葉が通じないのです。
そこでシルマンは、郊外に出て、子供たちと一緒に遊び、歌をうたい、あるいは郊外の散歩につれだし、ある時は、ドイツ語の授業、ある時は算数の授業を行いました。
自然物の全てが教材であり、
全てが教科書であり、
全てが教室でした。
こうやってシルマンは、森と湖に恵まれた広大なこの土地に、3年間すごした後、さらに3年間ケーニスベルク近辺の小学校で教師をしました。そして、窮屈な教室から野外へ子供たちをつれだしました。教室では得られない自然の歴史、地理を学びました。これをシルマンは、『移動学校(ワンデルンデ・シュール)』と呼びました。そして、この移動学校から、ユースホステル運動が誕生するのです。
1901年。シルマン、27歳。
彼は、ルール地方の中心地ゲルゼンキルヒュンで教職につきました。
シルマンは、公害の巣窟である都市にすむ子供たちに、ラインを流れる機械の部品のように学校という工場で量産されつつある子供たちに、ワンデルンデ・シュールを実行したいと願ったのです。そして、町からほんの2〜3キロ離れたウェストファリアンの丘まで子供たちを遠足につれていきました。幼ない子供たちの瞳は輝き、よろこびのあまり歓声をあげました。
「わあッ、魚だ」
「ほんと、生きた魚だよ!」
なんと、ルールの子供たちたちは、これまで生きた魚を見る機会さえ、めったになかったのです。これが明治36年のドイツのルール工業地帯の現状でした。
1903年。シルマンは、アルテナの学校に転勤しました。
アルテナは、樹木の豊かな清々しい町でした。しかし、このような緑に恵まれた環境に住みながら、町から一歩も踏み出したことのない子供が多かったことには驚かされました。どんなに緑の豊かな地方においても、産業革命と近代化の進んだドイツでは、子供たちが自然のフィールドで遊ぶということは起こりにくかったようです。
そして、それは、今日の日本でも同じかもしれません。緑豊かな田舎に住んでいる日本の子供たちでも、自然のなかで遊ぶ子供たちは少なく、むしろ家から一歩も出ないでパソコンゲームばかりしている子供たちが多かったりします。つまり、当時のドイツも、現在の日本も同じようなものであるのかもしれません。
シルマンは、ドイツの田舎町で、ワンデルンデ・シュールを実施することにしました。
「こんもり繁ったぶな林で歌をうたう方が、教室に閉じこもったままの勉強より二倍もすばらしい。地理や自然の歴史の勉強は、こんなふうに田園地方を探索することで十分だった。それにまた、子供たちのよろこびようは大へんなものでした」
(シルマン談)
こうしてシルマンの移動学校(ワンデルンデ・シュール)は開始されましたが、一つ問題がありました。当時は、適当な宿泊施設が無かったのです。そのためシルマンは、宿泊所の確保に四苦八苦しました。あちこちに無料の宿泊施設の提供を求めて手紙を書きました。
「納屋でかまいませんから子供たちに貸してくれませんか?」
1909年の夏、シルマンは、アルテナを始点にライン川沿いにアーヘンの丘陵地帯を抜ける8泊徒歩旅行を計画しました。
第一日目、一行は納屋に泊りました。そこは、とても快適で、農家の主人の親切な心くばりで毛布までも用意され、プラムに新鮮なミルクまで出されたのでした。
第二日目。8月26日。
一行は、風雨の激しい最中、ブレール・バリィにたどりつきまとた。そしてシルマンは、農家に納屋を利用させてくれるよう頼みましたが、その家の主人は、協力をことわりました。それでもどうにかこうにか、ワラを少しだけもらえないかとたのみ、わずかばかりのワラを携えながら、シルマンと子供たちは、村の学校をたずね、ようやく先生の奥さんの許可を得て、そこに泊ることができました。
嵐は、一晩中続きました。雷鳴、稲光、強風、豪雨、雲とそれはさながらこの世の最後を思わせるほどでした。もし、村の学校の奥さんに断られていたら、シルマンと子供たちはどうなっていたでしょうか? まさにシルマンの旅は『冒険』そのものでした。
「こんな事は繰り返されてはならない」
子供たちが眠っている間、シルマンの脳裏に稲妻が走りました。
そして天空にも稲妻が走っていました。
「そうだ、ドイツ国中の学校が、休暇中、宿舎(ホステル)として提供されれば、こんな危険な目にあわなくてすむ。学校を利用すれば、子供たちのために、安全で簡素で格安な『ユース・ホステル』を作れる! そうだ、ユースホステルを作ろう! ドイツ中の学校に呼びかけて、全国にユースホステルを作るんだ!」
1909年。アーヘンへの旅行第二日目の8月26日の夜。
ブレール・バリィで宿泊所の欠乏に気付いたその日こそ、
ユース・ホステル運動が誕生したのです。
8月26日は、そんなシルマンを忍ぶ、
シルマンデー(ユースホステルの日)として、
ユースホステルの創始者リヒァルト・シルマンを
記念する日となっています。